昭和50年01月26日 朝の御理解
御理解 第5節
『これまで神がものを言うて聞かせる事はあるまい どこへ参っても片便で願い捨てであろうが それでも一心を立てればわが心に神が御座るからおかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ 天も地も昔から死んだ事なし この方が祈るところは 天地金乃神と一心ないり。』
教祖生神金光大神が祈られる所、天地金乃神と一心天地金乃神と、同根とまで言われておるのですから、正しくこの方が祈られる所は、天地金乃神の一心だと。けども此れは教祖金光大神の専売特許ではないと思うんです。皆んなが此の様な所謂、神様と何時も共にあると言う実感というか、そう言う実感が頂けて来る所、私は天地金乃神と一心になっておらなければ、それは出来ないと思う。
神様のご守護頂き通し頂いておるというか、その中に矢張り溶け込んでおらなければ、言うならばそれは一滴のお水かも知れない私共は。天地金乃神はいうなら大海の様なお水かも知れない。けれどもその一滴の水でもです、それが谷川に落ちて大川に流れ込むそして大海に入って行く。もうそこにはね、同じ同質のものと言う事になるのです。私共が一滴の水であっても、神様の言うならお心の中に入って行ってしまうと言うか、まぁ神の心を心としてと言う様な事でしょうね。
そこにはねそこには言うなら神様と共にある。吾神と共にあると言う様なことをまぁ、御道の信奉者よく申しますけれども。此れはもう本当に実感としてですね、そういうおかげの頂けて行けれる私は道を体得して行く。それにはですどこへ参っても言わば、片便の願い捨てであったのだけれども。教祖金光大神の御出現によっては私共はいうならば、神の心を心として解らせて頂く事が出来る様になったと言う事です。神様の心が解らせて頂ける様になる。
言うならば、お参りをさせて頂く様々の難儀からまぁ、信心をする人が大体多いですけれども、ね。どうして此の様な事になるのであろうかと。解らんなりに只一心を立てて一生懸命拝めばそれこそ石の祠(ほこら)を拝んでもですね、立ち木をそのまま拝んでもです、おかげが頂かれるのは我が心に神が御座るから、一心を立てればおかげになるのじゃと仰る。此れは二、三日先日でしかね、申しました。真剣さをです、此れはもう一生懸命いうならばその修行をさせて貰う。
只自分の難儀を一つ成就する事の為に一生懸命、一心不乱に拝む。そう言う修行をしている内にです、矢張り我が心の神様が目覚めて御座るというか、言うならばおかげになる、おかげになるというその様な心の状態がね、本当に奇跡を呼ぶ様な事になるのですけれども。そう言う信心では言わば天地金乃神と一心なりと言うようなおかげにはならんのです。そう言う例はもう皆さんもご承知の通りですもう沢山ありますよ。
例えば本当に奇跡位はそれこそ、此の柱なら柱を目当てに一生懸命拝んで、修行でもさせて貰うてそれこそ、丑の時参りをしたりね。お水を被ったりしてから本気でやったら奇跡は現れます。それは我が心に神が御座るからとこう仰っておられる。それをなら四・五日前の御理解をもって頂きますと、言わばそれは真剣さだと言うわけです。そう言う事ですね。一生懸命此れは修行しぬかんとそのおかげになるというのは確信が持てる心が生まれて参りません。
其処でです、今日は皆さんこうして日々お参りなさって片便の願い捨てではなくて私が神様の代行をさせて貰うてです、神様の心を皆さんにこうやって聞いて頂くのですから。それを聞いて帰って行じなければ駄目なんです。私は今朝からこう言う様なお夢を頂きました。私は昨日は嘉穂郡の飯塚の教会にいて、教会はもう全然現代の飯塚教会と違いますけれども、素晴らしい教会です。
そしていろんな行事がすんで、帰らせて頂こうと言う時になったら、ここのご信者さんが二、三人やっぱりお参りして来ておるというか、来ておる訳なんです。そこへ久富正義先生があの自動車でむかいに来てくれておるところのお夢でした。したら私はそれに乗らせて頂く、他の信者さんも一緒にならちょうど都合がよかったからあの一緒に便乗させて貰いなさいちたら、はぁ残念でした僕達はあの自転車で来ておるおりますと言うんです。というお夢でした。
私はその事を今朝、神様に夕べの事をお願いさせて頂いておりましたら『宝の山に入りながら』と言う事を頂きました。宝の山に入りながら。飯塚と言う事は、飯と言う事は、言うなら“めしづか”と言う事頂きます。言うならば飯(めし)と言う事はお互いがままになるという、塚と言う事は山と頂いても良い、宝の山と頂いていいでしょう。お互いが言うならば、折角宝の山に入りながらね、言うならば自転車で来ておるというのです。自転車というのは自分で踏んで行かなければならない。
言うならば、自力とでも申しましょうか。我力とでも言うでしょうか。人間心と言うても良いでしょう。ですからその信心とは結局、人間心を捨てると言う我情我欲を捨てると言う事です。さっきから申します神様の思いに沿うた生き方をすると言う事です。自分でよか事やっといてから結果が悪くなったけん、神様どうぞお願いしますというのはだから、ちょっと道が違う訳です。ならけれども、皆がそうですけれどもね。
もうそれこそ自分でよかごつやっといて行き詰まってしもうてから神様お願いしますと言うじゃなくてです、そう言う生き方からそれこそ神様任せというか、御神意のまにまににおかげを頂かせて貰うと言う生き方。私の場合はだから神様まか、誰が送ってくれておるか、そこはお夢ですから解りませんけれどもです。私は迎いに来た車に乗って帰られる。さぁ帰りが大変なんです、ね。飯塚から例えば合楽まで帰る為にはあの何とか峠ですね、あそこは何とか峠。冷や水峠ですか、ね。
冷や水峠ですね。それこそあの冷や水峠という難路を、例えば自転車で通ると言う事は大変な難しい事なんです。合楽に着く迄。合楽のおかげを頂く為に。ね。けれども例えば、神ながらなお繰り合わせ。親先生と共にと言う生き方をしておったらです、言うなら神様の心と共にと言う生き方をしておったらですね、所謂宝の山に入って宝を頂く事が出来るというお知らせであったと思うのです。
今年はね、そういう言うならば、皆さんは宝の山入っておられると言う感じです。何故って、今年は神様の方がこちら向きになって御座る。おかげを下さろうと言う年ですから。それにこっち向けていてもむこう向いとるならどんこん出来ません。言うなら互い違いになる、神様を思うと互い違いになるならば出来ません。そこで言うならば、自力を捨てて言うならば、他力のお働きにお縋りをするというのが、神様任せというか親先生任せの生き方をさせて貰う、という生き方にならにゃいけない。
また次に、こんなお夢を頂きました。私がまだあの酒屋をしておる時分でした、のお夢です。けれども全然周囲に現れて来る人たちは私が知らない人ばかりなんです。大きなねお屋敷なんです。そこで私がお酒の売り掛け代金を集金に行っておる所でした。勝手の方から入り、台所に入った。コタツ何かがこうおいてあって部屋のフスマが沢山あります、ずーと一番向こうのお座敷がご主人の書斎の様な感じです。
そこで大変品のよいそれでもなんとなしに貧相な感じの品の良いおじいさんが、書見をしておられる。本でもこう読んでおられると言う感じです。そこに何人かの人が立ててまぁ、向こうお世帯を囲んでお話があっておるのが何とはなしに良いお話ではなかりそうな感じです。私がこちらから眺めておる。そして私がそこに集金に行っておるのですからそのコタツの所におられる息子さんが、丁度大学の試験休みか何かで、帰省しておられる模様です。帰って来ておられる、田舎の家に。
そして私あのこうやってあの集金に参りましたのでと言ったら、あ、大坪さんでしょうとその息子さんが言われる。私は大坪ですがと言ったら、大坪さんなら母が会うと言うて奥に入っておりますから、ちょっと暫くお待ち下さいとこう言うんです。大坪さんなら母が会うと言われる所に、私気分良くなった訳ですね。私の方とだけは支払うて下さるなと言う感じなんです。そういうお夢でした。
私はその中から何となしにね、本当に此れは信心をさせて頂く者のその自覚というか、それをね促がされた様な気が致しました。御神縁を頂くと言う事はね、ただ事じゃないです。合楽に御神縁を頂かれたと言う事は。それをね例えて申しますとです、どう言う事になるかというと、もうその家は見かけはまだ立派に大きな屋敷に住んでおられるし、まだご主人はいうならば、別にガタガタしなさらんでも良い。いうなら書斎で本どん読んでおられる位。息子さんは大学にまでやってあると言う事が解る訳です。
けれどもお母さんは借金取りが次々来るもんだからです、裏にもう引っ込んで御座るという感じです。けれどもあの大坪さんが見えたなら大坪さんだけには払うけんね。大坪さんが見えたら言うてくれと言うて裏に引っ込んでおられるなと言う事らしいです。そして私がコタツの前に座って待っておりましたね、座っとったら私のほんでガタッとその畳が下へ落ちたんです。
はは此れは根太がもうガタガタなっとるとばいなと思うておるお夢でした。言うならどんなに大きな、例えば大きな家に住んでおっても矢張り、家の内が何となしにです左まいになって人間の見た目じゃ解りません。まぁだ色々やっておるにあります。けどももうそういう時期がね。まぁ栄光盛衰は世の習いとこう申しますけれども、どんなにも栄えておっても言うならばもう衰微しておる。もう落ち目になっておられる。
霊的に言うたら。自分だけはまだ此れだけの財産もある此れだけの家もあると思うておるけれどもです。何時の間にかもう左巻き、左向きに、になって行かなければならない様な、状態になっておると言う事です。まぁ私が昨日夢の中で尋ねておる家は言うならば、支払い何かも何処にでんどんどんもう昔の様に出来なさらん、只自分の帰依をしておる大坪さんの所だけには払おうという程度の言うならば。
状態のお夢を頂いてしかも、私が座った所が根太が落ちて畳が落ちた落ちたと、言う所から考えさせて貰ってです、私はどうでもお道の信心をさせて頂くならばです、先ずは廻りの自覚に立たなければいけないと言う事です。成る程信心でもしなければ助からない、因縁がある家だなと言う事です。成る程神様が屑の子程可愛いと仰せられるが、成る程屑の子だからこそ私に手を掛けて下さったんだなと言う自覚に立つと言う事です。私共の事を思わせて頂きましてもです。
一生懸命信心をさせて頂いても、どうしてあんなに次々と難儀な続くだろうか。どうして信心すりゃあんなに貧乏せんならんだろうか、と言う様な所も通らせて頂いたけれども。神様はね、廻りの為だからしかも、その廻りが大きければ大きいだけ、おかげも又大きいぞ教えて下さったです。廻りが大きければ大きいだけ、大きな家でもが倒れると言う事は、愈々大きな廻りを積んでおる訳です。それはですね、もう本当に倒れるという段になったら、もうどうもしょうがないです。
昨日私がお話の中にあの上滝さんとね、あの地震のお話を致しました。二人座って立派なお家が出来ておる。そこで上滝さんに私が話しておる事。ちょうどそこへ地震がある。横揺れにこうやって来た。しかもひどい横揺れ。それでお話を続けながら上滝さん横揺れだからまだよかけれども、此れが立てに揺れるごつなったらこの家もまたたく間だよと言うておるお夢であった。
昨日のお話の中に。どんなに此れだけの事がね、例えばあの近うに日田の麻生さんという大きなお酒屋さんがありましたよね。それこそもう、それこそ億の付く金の山やら山谷をもっておられましたんですけれどもね。お酒屋さんでもなさるけん大変な財産家でしたけれども。もう本当にあっと言う間でしたよ、あちらが潰れなさったのは。もうガタガタと言いだしたらもう根太が落ちておるのですから、根太がもう家全体がそれと同じにもうそれとるとです、実際は。
此れはもう一風吹いたらたまりが、たまらないのです。そういう寸前に、寸前というとそう言う事になる事の前にです、お互いが御神縁を頂いておると言う事を、私は今日は話を聞いて帰られると言う事はね、私は合楽に御神縁を頂いておられる方達は、そう言う廻りがね御神縁を作ったと先ずは思わなければいけないです。けれども解れば解る程です、そう言う廻りが大きいなら大きい程けれどもおかげも大きいと言う事は、その廻りを私共が愈々お取り祓いを頂いた暁には、おかげだけではありません。
力、徳が受けられておると言う事で御座います。もう其処からはです、言うなら栄枯盛衰世の習いと言う様な事は、もう卒業して良い訳です。そう言う事はないです。お徳を受けたらそれこそ日優り月勝り、親の代より子の代、子の代より孫の代。それが御神徳です。そう言う御神徳を受けさせて頂く事の所をです、此処であるですね。『この方が祈る所は天地金乃神と一心になり』と言う程しのですね、おかげの頂けれる心の状態を作って行く事に、勤めなければならないと言う事になるのです。
私は信心をさせて頂くなら先ずは、廻りの自覚に立たせて貰うと言う事。廻りの自覚と言う事はね、はー、家、家に因縁廻りが多いから難儀をせんならんというのじゃなくてね。おけがで力が受けられるぞ、おかげでお徳が受けられるぞという私は受け方が中には勿論いけんのです。そこにですなら、そう言う廻りのお取り祓い頂かせて事の為にどういう信心をさせて頂くかと言う事です。
例えば、日田の綾部さんが御神縁を頂かれたのは、難儀な問題でも何でもなかった。ただ高芝さんを通して御神縁を頂かれた。それからまぁ、私の説く所を成る程成る程と合点の行く事ばかりだから、まぁ熱心にお参りをされる様になった。それから数年間はあれだけの大きなお店の上に、ずっと赤字が続いたと言われる。毎年。もう神様がすでにです大坪さんがいうならば集金に来てござると言う事なんです。所が大坪さんにたまたま信用があったもんですから、大坪さんに払うなら惜しくない。
もう親先生のお取次ぎを頂いての赤字のだから、有り難いと言う事になった訳です。此れで廻りのお取り祓いを済んだ訳じゃありません。寒修行が始まってそれそこ日田から今、日田市の方だけでも沢山お参りになります。矢張り支部長である所の綾部さんを、中心にしての事で御座いますけれどもです。先日もあの雪の日によその車にこうぶつけた。言うならば、修繕料が十万もいったと。もう向こうから言わずにこちらで持たせて貰うと言う様な事でもです。
私は廻りの自覚に立たなければ出来る事じゃないと思うです。朝お参りをしおって、朝の寒修行に参りおってから十万も損せんならん。もうそれこそあの親戚のおばちゃんが言わしゃったげな。もうあんただんもう性懲りもなく、そげなこつなったっちゃまだ参るのと仰ったげな。それが普通です。信心のないならそう言うのが当たり前です。けれども廻りの自覚に立って大坪さんに取り上げられるならばです。
取り上げられるというか、大坪さんに払うのならば惜しくないと言うて、おられる様な今日の私のお夢の状態じゃないでしょうか。して見るとです、例えばどの様な信心をさせて頂いとてどの様な事の場合であってもそれは痛い事痒い事損になる事であってもです、やれ痛や今磨けをという心にならなければならないと言う事が解ります。やれ痛や今こそ廻りのお取り祓いを頂いておるんだという言うならば、それをお礼で受けて行くと言う様な心の状態がいると言う事であります。
そういう状態で信心が続けられるならです、もう此れは絶対ですね。廻りは軽うなるお徳は重うなる。成る程天地金乃神と一心だ天地金乃神のご守護頂く時に頂かせて頂いておるんだと言う事が解って来ると思うんです。そこのところのおかげを頂いて頂きたい。今日はどこへ参っても方便の願い捨てであるけれども、合楽にお参りさせて頂くと其処の所の道理をです、もうそれこそ事細やかにしかも誰ぁれんでん解る様に噛んで含める様に教えて頂くのだから。
それを私はね、大坪さんを一つ信じて受けて下さる事にならなければ私は今日、もう一つのお夢の中に頂きました様に宝の山に入りながら宝を頂かずに帰る様な結果になってはならんのです。それには自分の我力を先ず捨てる事です。ね。それを一番解り易く言うと、所謂親先生任せと言う事です。それは自分の都合の悪いの事だけの時だけお伺いする時だけの事ではなくてです、生活の全てがです、ね、神様任せの生き方親先生の任せの生き方を愈々身に付けて行く事だと思います。
どうぞ。